村の概要

むらづくりの基本理念

檜枝岐村民憲章をむらづくりの基本理念とし、健康で明るく、皆が助け合い、活力にあふれた村民主役のむらづくりに向けて、村民と行政の協働により目標達成に努めます。

檜枝岐村民憲章

平成4年5月制定

わたしたちは、文化と伝統を引継ぎ、英知と潤いと活力に充ちた村を目指します。
檜枝岐村民としての誇りと責任を持ち、美しい自然環境を大切にしながら、地域の特性を生かした産業を育て、心豊かな人間性あふれる村づくりに力を合わせます。

一、自然を大切にし、緑を守り育てる村を作ります。
一、村民みんなが信頼し合い、思いやりのある村を作ります。
一、心身ともに健康で、明るく生きがいのある村を作ります。
一、誇りと喜びを持って仕事に励み、活力に満ちた村を作ります。
一、村を愛し、教養と文化のあふれる心豊かな村を作ります。

自然条件

福島県の西南端に位置し、東西24km南北34.5kmに及び、東は南会津町(旧舘岩村)に、南東は帝釈山、黒岩山等の山岳を挟んで栃木県日光市(旧栗山村)に、南は尾瀬国立公園を挟んで群馬県片品村に、西は只見川を県境として新潟県魚沼市(旧湯之谷村)に、北は只見町及び南会津町(旧伊南村)に接しています。

面積は390.46km2で、その約98%を林野が占めており、役場所在地の標高は939m、東北最高峰の燧ケ岳や会津駒ケ岳など2,000m級の山々に囲まれた山村です。

平均気温は7.7°Cと低く、平均降水量は1,600mmを超え、最深積雪量は例年200cm前後で多い年は300cmを超えることもある豪雪地帯です。

歴史的背景

この地には縄文時代の土器や石器等が多く発掘されていることから、古くから人々が居住していたと推定されます。

村に残る記録には、都が奈良から京都に移された794年に、紀州から移り住んだ藤原金晴という人物が邑長になったと記されています。

その後、江戸幕府直轄領地の時代を経て、明治22年の市町村制の施行により伊南村・大川村・檜枝岐村の組合村となりましたが、大正6年に組合村から独立し「檜枝岐村」となりました。

雪崩・水害・全村焼失・川向集落焼失など多くの災害に見舞われ、苦難に耐えた時期もありましたが、日本の経済成長に合わせ公共施設整備の取組みを始め、昭和36年に奥只見発電所が完成するころから、ライフライン等徐々に生活条件も向上してきました。

昭和48年には温泉が湧出し、昭和50年には村内各家庭に温泉が給湯され、それ以降尾瀬の自然と温泉を結んだ観光立村として、地域資源や特色を活かした村づくりに励んできました。

平成7年には市町村合併特例法が施行され、南会津郡内においても合併検討研究会を設立し検討されましたが、平成14年に檜枝岐村は合併をしない道を選んできました。

人口の推移

国勢調査人口は、昭和35年の983人をピークに平成2年の702人まで減少しましたが、平成12年までに757人と一旦増加したものの、それ以降は減少を続けており、平成22年の人口は637人に、平成27年には614人(速報値)となっています。

このうち、0歳から14歳までは215人の減、14歳から29歳までは229人の減、30歳から64歳までは63人の減となっていますが、65歳以上は161人増加するという、少子高齢化が顕著に表れています。

平成17年から平成22年の減少率が高い要因の一つとして、山小屋の季節的雇用従業員が減少したことが考えられますが、近い将来の労働力が約20%減、出生数を最も期待される年齢層である15~29歳以下の人口がここ10年で半数以下に激減していることから、今後さらに少子高齢化が進むことが懸念されます。

産業の状況

第1次産業については、面積の大部分を林野が占める本村はかつて木工業が主な産業であり、村においても国有林の払い下げを受け、村営林産所で加工して販売したり村民からの依頼で製材をしていましたが、時代と共に衰退し、現在木工業従事者はほとんどいません。

農業については、県内で唯一米ができない高冷地であるため、そばや自家消費用の野菜や雑穀等の栽培のみにとどまっています。

第2次、第3次産業については、立地条件から民間企業の誘致は難しく、個人経営の観光関連業がほとんどを占め、昭和40年後半から徐々に増加し、尾瀬国立公園や温泉を目的に訪れる観光客の増加とともに観光関連産業が発展しました。これにより、平成22年の国勢調査では第3次産業の就業人口が93.4%となっており、現在においても観光産業が当村の主産業となっています。

お問い合わせ先

  • 総務課TEL:0241-75-2500

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